ここまでは、行列の話が中心だった。退屈だったかもしれないし、
「そのような事はどうでも良いから分析法を教えろ!」
などと言いたい人もいるかもしれない。このブログでは、中身にも踏み込む。
ここまでの話が理解できないと、この先の話は到底理解できまい。
今回の話はちょっとした息抜きである。
息抜きであるが、多少は役立つ話。
数学アレルギーという(医学的根拠の無い)症例が在ったとして、
そのような病気(とは言えないようなもの)の処方(のようなもの)、
と言わないまでも、誤解を解く程度はできるかもしれない。
ということで、今回は文系らしい、文系の話である。
「統計」が、そもそもは、「文系」の領域であるという話である。
もっとも、「文系」と「理系」の定義関しては、様々な意見もあるかと思うので、
「文系」とは、「文化科学」を志向する人の総称であり、
「理系」とは、「自然科学」を志向する人の総称である。
これが、本ブログにおける「文系」と「理系」の位置づけである。
あくまで、「定義」とは言わず、「位置づけ」としておく。
ツッコミたい人もいるかもしれない。だから、詳しい話はしない。
とにかく、数学の得意、不得意は問題ではない、ということ。
さてさて、この前提を置いた上で、
本来は、「統計」が「文系」のものである、という話をする。
定量的な手法は、どのような経緯で社会的な問題に応用されたのか?
まずは、この問題について整理から始めてみる。
歴史的な経緯を知ることは、定量的な分析の本質的な考え方や
方針を深く理解する上で非常に大きなヒントとなる。
定量的な手法を研究する分野に統計学がある。そんなことは知っている。
しかし、「統計」という言葉の意味は多様。一概に定義することは少々難しい。
状況に応じて、異なる意味を持つことがある。
そもそも、「統計」を意味する英語の「statistics」の語源は、
ラテン語の「statisticum colegium(国の評議会)」という言葉、あるいは、
イタリア語の官僚や政治家を意味するstatistaにあるとされている。
これが転じて、18世紀までは、「人口を体系的に集めたもの」あるいは、
「国家の経済的なデータ」を指す言葉であった。
この意味は、現在でも使われている。例えば、「人口統計」。
単に、「国勢調査」などで得られた「表形式のデータ」を指す。
では、この意味が、どのような経緯で変化してきのか?
統計学の歴史では、諸説があるようだが、
ドイツのゴットフリート・アーヘンヴァール(1719-1772)が、
「国家の科学」という意味で「statistik」という言葉を用いた
のが近代統計の起源である。という説をこのブログでは採用する。
この辺は、Wikipedia 信じてみる。「総意」としては的を得ているだろう。
もっとも、他の説もあるようだ。これが「正しい」とは主張しない。
実際、以下のページおいても、ウィリアム・ペッティ説というのがある。
http://en.wikipedia.org/wiki/Gottfried_Achenwall(2012年8月10日 20:57 現在)
ともかく、ゴットフリートは、1749年に「国家の科学」という言葉を使ったらしい。
時期的には、オーストリア・継承戦争の時期。
フランス革命の遠因となった戦争であり、
世の中が混沌とした方向に向かっていく時期である。
このような状況下で「国家の科学」というものを提唱したことは興味深い。
では、どういった人物だったのか?かなりの「傑物」だったらしい。
哲学者であり、歴史学者であり、経済学者であり、法学者であり、統計学者であった。
彼は、イエナ、ハレ、ライプツィヒ、と転々と移動しながら勉強を続け、
1943年から1946年にかけて、ドレスデンで会計監査官として仕事に従事した。
1946年に、ライプツィヒ大学の哲学科で修士号を得てからは、
マールブルク大学の助教になり、歴史学、統計学、自然法、国際法の講義を行った。
どうでも良い話であるが、幼少期に、マールブルクの街に居たことがある。
小さな、美しい街で、ヴェゲナーなど、様々な有名人たちに縁のある街である。
彼は、1748年にゲッティンゲン大学に招かれて、哲学の名誉教授になった。
さらに、1753年には、法学の名誉教授と哲学科の専任教授となった。
「国家の科学」という言葉を用いたのは、この時期である。
また、主要著書『ヨーロッパ諸国の国勢学綱要』(1951)もこの時期。
この本は、様々な国々の政体に対する総合的な視点から描かれていて、
農業、製造業、商業の状況について記述し、
至るところで、これらの主題に関して統計を用いた、らしい。
「らしい」というのは、私は、実物を確認していない。
論文を書くときなどでは、ちゃんとした確認が必要。
今は、良い。研究のつもりでは書いていないから。これもいずれ。
彼の経済学的な立ち位置は「穏健派重商主義」という立場。
要するに、貿易など商業活動を通じて国家の富を増大させることを重視していた。
「数字」との関わりで考えるならば、これも重要な要素であったと考えられる。
ふむ。「統計」との関わりだけならば、重要な話はここまで。
だが、折角なので、ここから先の話もする。
彼は、これで満足しなかった。ここまで来て、
自然法と政治学を極めようと志し、
1762年には両分野の博士号を取得した。
能力のみならず、凄まじい、気力と体力の持ち主のようだ。
どのような経緯があったのかは(勉強不足で)不明であるが、
ハノーヴァー朝のジョージIII世の経済的援助の下で、
1751年にはスイスとフランスに、1759年にはオランダとイングランドに訪れ、
そして、1765年には、大英帝国およびハノーヴァー(ドイツ)の法廷弁護人なった。
ふむふむ。なるほど。「統計」の始まりは「国家政策」と結びついていたようだ。
しかも、登場した時期というのが「将来が暗くなっていく」時期であった。
現在でも、「社会政策論」などは、「文系の領域」で扱うものであるし、
そういった観点から考えると、典型的な文系分野から始まったことになる。
このような言い方をすると、
「いや、私は〇〇学だから関係ないし。適当に使えれば良いですよ。」
などと、トンデモナイ発言をする人が居るかもしれない。
重要なことは、「何故、こういった技術が必要とされたか?」という問題。
そのような、事象の背後に潜んでいる「本質の姿」を推測し、理解することである。
っと、偉そうに言ってみた。
ふむふむ。それにしても、ゴットフリートという人物は多彩な人物であった。
そう言えば、ヒエログリフを解読したことで有名なシャンポリオン、
彼に、直接的な影響を与えたのはフーリエであった。
暗号解読は、かなり数学的なセンスが要求されるから数学は得意だっただろう。
哲学者として知られるカントも、数学に関して相当の知識があったようだ。
そもそも、哲学と物理学は「切っても切れない」関係がある。
今では、勝手に切ってしまっている人もいるようだが。
カントは、入賞しなかったとは言え、1764年の懸賞論文で、
自然神学や道徳といった形而上学的心理一般の第一原理が、
幾何学的心理のように、判明に証明されうるか否か…
という課題に挑戦し、第二位の成績であったらしい。
ちなみに、その時の入賞者は、モーゼス・メンデルスゾーン。
音楽家で有名なフェリックス・メンデルスゾーンの祖父であった。
カントは、地理学ではお馴染みのランベルトにも一種の憧れがあったようで、
その影響もあってか、「カント・ラプラス星雲説」というのを唱えた。
多くの複雑な事象は、様々な観点を同時に扱うことで、
本質的問題を得られることが多い。細分化すると逆に見えなくなる。
かつては、多視野な取り組みが当たり前だったのかもしれない。
さてさて、このブログは、本当に話がよく逸れる。
解りやすいのか、解りにくいのか、いずれにせよ修正は必要だろう。
さて、フランス革命が1789年から始まる。
益々、社会が混沌と化し、大衆の操作が難しくなってくる。
そうした中で、統計をめぐる状況は、どのように変化したのだろうか?
その話は、次の話でしてみようと思う。
「そのような事はどうでも良いから分析法を教えろ!」
などと言いたい人もいるかもしれない。このブログでは、中身にも踏み込む。
ここまでの話が理解できないと、この先の話は到底理解できまい。
今回の話はちょっとした息抜きである。
息抜きであるが、多少は役立つ話。
数学アレルギーという(医学的根拠の無い)症例が在ったとして、
そのような病気(とは言えないようなもの)の処方(のようなもの)、
と言わないまでも、誤解を解く程度はできるかもしれない。
ということで、今回は文系らしい、文系の話である。
「統計」が、そもそもは、「文系」の領域であるという話である。
もっとも、「文系」と「理系」の定義関しては、様々な意見もあるかと思うので、
「文系」とは、「文化科学」を志向する人の総称であり、
「理系」とは、「自然科学」を志向する人の総称である。
これが、本ブログにおける「文系」と「理系」の位置づけである。
あくまで、「定義」とは言わず、「位置づけ」としておく。
ツッコミたい人もいるかもしれない。だから、詳しい話はしない。
とにかく、数学の得意、不得意は問題ではない、ということ。
さてさて、この前提を置いた上で、
本来は、「統計」が「文系」のものである、という話をする。
定量的な手法は、どのような経緯で社会的な問題に応用されたのか?
まずは、この問題について整理から始めてみる。
歴史的な経緯を知ることは、定量的な分析の本質的な考え方や
方針を深く理解する上で非常に大きなヒントとなる。
定量的な手法を研究する分野に統計学がある。そんなことは知っている。
しかし、「統計」という言葉の意味は多様。一概に定義することは少々難しい。
状況に応じて、異なる意味を持つことがある。
そもそも、「統計」を意味する英語の「statistics」の語源は、
ラテン語の「statisticum colegium(国の評議会)」という言葉、あるいは、
イタリア語の官僚や政治家を意味するstatistaにあるとされている。
これが転じて、18世紀までは、「人口を体系的に集めたもの」あるいは、
「国家の経済的なデータ」を指す言葉であった。
この意味は、現在でも使われている。例えば、「人口統計」。
単に、「国勢調査」などで得られた「表形式のデータ」を指す。
では、この意味が、どのような経緯で変化してきのか?
統計学の歴史では、諸説があるようだが、
ドイツのゴットフリート・アーヘンヴァール(1719-1772)が、
「国家の科学」という意味で「statistik」という言葉を用いた
のが近代統計の起源である。という説をこのブログでは採用する。
この辺は、Wikipedia 信じてみる。「総意」としては的を得ているだろう。
もっとも、他の説もあるようだ。これが「正しい」とは主張しない。
実際、以下のページおいても、ウィリアム・ペッティ説というのがある。
http://en.wikipedia.org/wiki/Gottfried_Achenwall(2012年8月10日 20:57 現在)
ともかく、ゴットフリートは、1749年に「国家の科学」という言葉を使ったらしい。
時期的には、オーストリア・継承戦争の時期。
フランス革命の遠因となった戦争であり、
世の中が混沌とした方向に向かっていく時期である。
このような状況下で「国家の科学」というものを提唱したことは興味深い。
では、どういった人物だったのか?かなりの「傑物」だったらしい。
哲学者であり、歴史学者であり、経済学者であり、法学者であり、統計学者であった。
彼は、イエナ、ハレ、ライプツィヒ、と転々と移動しながら勉強を続け、
1943年から1946年にかけて、ドレスデンで会計監査官として仕事に従事した。
1946年に、ライプツィヒ大学の哲学科で修士号を得てからは、
マールブルク大学の助教になり、歴史学、統計学、自然法、国際法の講義を行った。
どうでも良い話であるが、幼少期に、マールブルクの街に居たことがある。
小さな、美しい街で、ヴェゲナーなど、様々な有名人たちに縁のある街である。
彼は、1748年にゲッティンゲン大学に招かれて、哲学の名誉教授になった。
さらに、1753年には、法学の名誉教授と哲学科の専任教授となった。
「国家の科学」という言葉を用いたのは、この時期である。
また、主要著書『ヨーロッパ諸国の国勢学綱要』(1951)もこの時期。
この本は、様々な国々の政体に対する総合的な視点から描かれていて、
農業、製造業、商業の状況について記述し、
至るところで、これらの主題に関して統計を用いた、らしい。
「らしい」というのは、私は、実物を確認していない。
論文を書くときなどでは、ちゃんとした確認が必要。
今は、良い。研究のつもりでは書いていないから。これもいずれ。
彼の経済学的な立ち位置は「穏健派重商主義」という立場。
要するに、貿易など商業活動を通じて国家の富を増大させることを重視していた。
「数字」との関わりで考えるならば、これも重要な要素であったと考えられる。
ふむ。「統計」との関わりだけならば、重要な話はここまで。
だが、折角なので、ここから先の話もする。
彼は、これで満足しなかった。ここまで来て、
自然法と政治学を極めようと志し、
1762年には両分野の博士号を取得した。
能力のみならず、凄まじい、気力と体力の持ち主のようだ。
どのような経緯があったのかは(勉強不足で)不明であるが、
ハノーヴァー朝のジョージIII世の経済的援助の下で、
1751年にはスイスとフランスに、1759年にはオランダとイングランドに訪れ、
そして、1765年には、大英帝国およびハノーヴァー(ドイツ)の法廷弁護人なった。
ふむふむ。なるほど。「統計」の始まりは「国家政策」と結びついていたようだ。
しかも、登場した時期というのが「将来が暗くなっていく」時期であった。
現在でも、「社会政策論」などは、「文系の領域」で扱うものであるし、
そういった観点から考えると、典型的な文系分野から始まったことになる。
このような言い方をすると、
「いや、私は〇〇学だから関係ないし。適当に使えれば良いですよ。」
などと、トンデモナイ発言をする人が居るかもしれない。
重要なことは、「何故、こういった技術が必要とされたか?」という問題。
そのような、事象の背後に潜んでいる「本質の姿」を推測し、理解することである。
っと、偉そうに言ってみた。
ふむふむ。それにしても、ゴットフリートという人物は多彩な人物であった。
そう言えば、ヒエログリフを解読したことで有名なシャンポリオン、
彼に、直接的な影響を与えたのはフーリエであった。
暗号解読は、かなり数学的なセンスが要求されるから数学は得意だっただろう。
哲学者として知られるカントも、数学に関して相当の知識があったようだ。
そもそも、哲学と物理学は「切っても切れない」関係がある。
今では、勝手に切ってしまっている人もいるようだが。
カントは、入賞しなかったとは言え、1764年の懸賞論文で、
自然神学や道徳といった形而上学的心理一般の第一原理が、
幾何学的心理のように、判明に証明されうるか否か…
という課題に挑戦し、第二位の成績であったらしい。
ちなみに、その時の入賞者は、モーゼス・メンデルスゾーン。
音楽家で有名なフェリックス・メンデルスゾーンの祖父であった。
カントは、地理学ではお馴染みのランベルトにも一種の憧れがあったようで、
その影響もあってか、「カント・ラプラス星雲説」というのを唱えた。
多くの複雑な事象は、様々な観点を同時に扱うことで、
本質的問題を得られることが多い。細分化すると逆に見えなくなる。
かつては、多視野な取り組みが当たり前だったのかもしれない。
さてさて、このブログは、本当に話がよく逸れる。
解りやすいのか、解りにくいのか、いずれにせよ修正は必要だろう。
さて、フランス革命が1789年から始まる。
益々、社会が混沌と化し、大衆の操作が難しくなってくる。
そうした中で、統計をめぐる状況は、どのように変化したのだろうか?
その話は、次の話でしてみようと思う。
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