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2012/08/23

文系のための「統計の歴史」(3)

ケトレーという人物は、とにかく、色々な人に影響を与えた。
フローレンス・ナイチンゲール(1820-1910)も、ケトレーの影響を強く受けた。

ナイチンゲールって誰?などと言う人は、まさか、居ないだろう。
日本では、クリミア戦争(1853−1856)で活躍した看護婦ということで有名。
白衣の天使」というのは、彼女に由来する。これも有名な話。

クリミア戦争というのは、直接的には化学史映像技術史
間接的には、考古学日本史とも関係する戦争でもある。
個人的には、これらの観点からこの戦争を俯瞰してみたいと、
そのように、考えているのだが、時間的な余裕が無く、今は構想だけ。

とにかく、ナイチンゲールは、世界的に有名な人物。
であるが、名前しか知らないという人もいるかも。

このような時に、Wikipedia というは、非常に便利な情報資源。
よくあることだが、日本語のページと英語のページで説明が微妙に異なる。

日本語のページ:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%8A%E3%82%A4%E3%83%81%E3%83%B3%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%AB

英語のページ:
http://en.wikipedia.org/wiki/Florence_Nightingale

あと、今回の話に関しては、元ネタの本が。参考に。

丸山健夫(2008)『ナイチンゲールは統計学者だった』 , 日科技連.

この本、丁度良いページ数。文字も大きくて読みやすい。
何より、内容が面白い。私のオススメの本。
なお、難解な数式は登場しないので、誰でも読める。

さて、ナイチンゲールという人物も、中々のマルチタレントな人物だった。
看護婦、社会起業家、看護教育学者、そして、統計学者

うん?統計学者!?ちょっと意外に思うかもしれない。
しかし、彼女がクリミア戦争看護婦として活躍したことと、
統計学者であったことは、決して無縁ではない。

ナイチンゲールは、1820年5月12日に、フィレンツェで誕生した。
別に、イタリア人というわけでは無い。両親は裕福なイギリス人の地主だった
そんな両親が、三年間の新婚旅行に出かけている途中で誕生した。

それにしても、三年間とは...。大富豪のやることは規模が違う。
私の場合は、一泊二日の有馬温泉だった。まぁ、そのような話はどうでも良い。

実は、フィレンツェは、英語では「Florence」と言う。彼女の名前は、生まれた地名。
少々、安直な命名のようにも感じるが。まぁ、この話もどうでも良い。

ナイチンゲールは、非常に高い水準の教育を受けてきた。
複数の言語を自在に操り、ラテン語も出来たようである。

ギリシア哲学や、数学、天文学、経済学、歴史、美術、音楽、絵画
地理学、歴史学、心理学といった勉強まで。まさに、天才少女だった。

当時の社会状況を考えると、教養の高さではヨーロッパでもトップクラスだった。

彼女の家庭環境だけでなく、彼女自身の教養の高さもあって、
上流階級の様々な人物と交流があったようである。
即位したばかりのヴィクトリア女王に謁見したこともあったし、
貴族や政治家の知り合いも多かった。

裕福な家庭、高い教養、人的ネットワーク、それらを兼ね備えた人物だった。
単なる、ボランティア精神豊かな人物では無かったのである。

さて、ナイチンゲールがなぜ、このブログに登場したのか。
彼女こそ、「統計データの可視化」の先駆者であり、
近代統計学あるいは応用統計学の母と言うべき存在なのである。

彼女の友人の一人に、シドニー・ハーバートという人物が居た。
彼は、クリミア戦争時の戦時大臣でもあった。
クリミア戦争の戦場は、苛烈な状況であったが戦場の看護婦は不足していた。

ハーバートは、そのような状況下で政府が派遣する「看護団」のことを考えていた。
そして、「責任者は、ナイチンゲールしか居ない」と考えた。

一方のナイチンゲールも、看護関係に強い興味があり、
また、看護活動は彼女の天職であると信じていた。
だから、「クリミアに行くのは私の仕事!」と考えていたのである。

こうして、ナイチンゲールは、クリミア戦争の戦地に赴くことになった。

彼女が戦場で見たこと。それは、戦争で死ぬ兵士よりも、
極端に劣悪な衛生状況が原因で蔓延した伝染病で死亡する兵士が多いという現実。

彼女は、ハーバートに相談した。この状況を、調査するべきであると。
そして、彼女は、優秀な仲間たちと、この問題にとりかかった。
統計学者のウィリアム・ファー
衛生学者のジョン・サザーランド、そして、
陸軍工兵のダグラス・ゴールトン

ダグラス・ゴールトンは、ナイチンゲールの従姉妹の夫
っで、ダグラス・ゴールトンの親戚には、
フランシス・ゴールトンという人物が居る。この人物、重要!
そして、その従兄弟には、チャールズ・ダーウィン。凄い人間関係。

話が逸れた。いつものように。

とにかく、ナイチンゲールとその仲間たちは戦場の衛生状況を調査した。
そして、統計の力を借りて、現状を把握、問題の可視化、現状の改善
という、現在では当たり前のことを実践した。

統計の力を借りて、現実の問題を明らかにし、それを元に現実を改善する。
この考えのオリジナルこそ、前回の話の中心物、ケトレーだった。

さて、彼女らの調査について、特筆すべきことは、彼女の作った報告書
そこには、様々なグラフィカルな図がギッシリと詰まっていた。

それまでは、可視化というアイデアは重要視されていなかった
だから、当時は、可視化された統計データは珍しく、文章だらけ

現在でも言えることであるが、文章だらけの報告書は読みにくい。
量が多いと、正直言って、ウンザリする。
逆手に取って、文章だらけの報告書で「誤魔化す輩」も居るが。

さて、そのような状況下、美的感覚にも優れた彼女が、
体系的に、統計データの可視化を行ったのである。
以下は、最も有名な図の一つ。他にも様々な図がある。

File:Nightingale-mortality.jpg
(出典:http://en.wikipedia.org/wiki/File:Nightingale-mortality.jpg

これを「バッツ・ウィング・グラフ」あるいは、
ナイチンゲール・ローズ・ダイアグラム」と呼ぶ。

実は、この図こそが、現在の円グラフの先駆けとなった。
ナイチンゲールは、円グラフを最初に有効活用した人物であった。

ナイチンゲールの報告書のインパクトは凄かった。
政治家や官僚を一瞬で魅了し、彼女らが提案した改善策が実際に採用された。
そして、実際に上手く行った。戦場の衛生環境は急速に改善されたである。

ナイチンゲールは、その後も統計学者だった。
女性としては、初めて、王立統計学会のフェローにも推薦された。
また、大学に応用統計学の講座を開くことの必要性も感じていた

これは実現しなかったが、彼女は、オックスフォード大学
応用統計学の寄付講座を作りたかったらしい。
このことは、フランシス・ゴールトンにも相談した。
もっとも、この時には、彼には受け入れられなかったらしい。

しかし、このことは、後に重要な話に繋がっていく。
応用統計学が大学の講義として開講されるようになったのは、
このフランシス・ゴールトン寄付講座によるのが最初。

もっとも、寄付した先は、オックスフォード大学ではなく、
ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)だった。
実は、フランシス・ゴールトンという人物、この人物も色々と面白い。

ダラダラ書いても飽きてくる。この人物の話は、いずれ。

2012/08/18

文系のための「統計の歴史」(2)

元来、統計というのは、体系的に整理された「国家のデータ」であった。
だから、現在でも「人口統計」と言うと、分析のことではなく、
人口データそのもののことを指す。

では、なぜ我々は、「統計」という言葉を聞いて小難しい分析を思い浮かべるのか?

この疑問を考える上で歴史上の最重要人物であるのが、
ランベール・アドルフ・ケトレー(1796-1874)という人物である。
この人物は、「近代統計の父」とも言われている。

先に、今回の話の参考資料を挙げておく。
私は、ケトレーの本はまだ読んでいない。読まないといけない。

1. Victoria Coven, 2003. History of Statistics in Social Sciences, An Academic Journal on the Web.
2. 清水幾太郎(1978)オーギュスト・コント―社会学とは何か』、岩波書店.

なお、本ブログは、適当な抜粋である。
嘘を書いているつもりは無いが、私情と私見がかなり入っている。
あくまで、これは単なるブログ。

このブログからのマゴビキ引用は禁止!自分で確認すること!
特に、大学のレポートだからと言って、手抜きしないこと!

さて、いきなり、話が逸れてしまった。
ふむ。それで、ケトレーとは、一体、何者か?

ケトレーは、ベルギーの数学者であり、天文学者だった。
彼は、マルサス、フーリエ、ラプラス、べバッジ、といった、
現在でも広く知られる伝説的な研究者らの影響を強く受けた人物の一人だった。
なるほど、この人物も、中々、非常に面白そうな人物である。

そもそも、18世紀から19世紀の初頭という時期はどういった時期であったか?
かろうじて、「神の力」が社会に影響力を持っていた頃であり、
つまり、教会によって社会的秩序が保証されていた時代であった。

ところが、フランス革命(1792-1802)が起きると状況は一変し、
やがて、社会は不安定になった。社会学はこの時期に登場し、
ケトレーが名付けた「社会物理学」もこの頃に登場する。

そう言えば、カントの『純粋理性批判』も、少し早いが、概ねこの頃(1872)。
歴史的なコンテキストとしても関係のするのだろうか?

さて、そんな時代に、ケトレーという人物は、
人々の行動に影響する原因」というものに強い関心があったらしい。
そして、「計算」という手段によってより簡単にその原因とやらを見出すことができる、
科学は、それを可能にするものである。そのように、考えていたようである。

ケトレーは、1820年にブリュッセルの王立科学アカデミーのメンバーに選ばれると、
様々な研究プロジェクトに参加し、人口統計に代数と幾何学の応用を試みた。

例えば、ベルギー人の出生率と死亡率から保険のレートを決める方法を考案したり、
ボディマス指数(BMI)と呼ばれる体格指数を考案したり、
とにかく、色々なことを考えた。そういう人物だった。

こうした試みの背景には、マルサスの『人口論』や、
フーリエによるパリでの統計の研究、
とりわけ、ラプラス確率論の原則からの影響があったようである。
実際に、彼らとは親交もあったらしい。

そもそも、確率論というのは、17世紀の賭博台から始まったものであったが、
その有用性の高さから、19世紀にはケトレーが利用するには
十分なレベルに発達していたし、彼は確率論をかなり高く評価した。
自然法則が社会にも通用するのであれば、確率論は十分に適用可能なのだと。

さて、彼の特に重要な業績は、おそらく、
人間とその能力の発展について-社会物理学の試み』である。
彼にとっては、第四番目の刊行物であり、
彼自身が「社会物理学」と名付けた分野の一端が垣間見える。

この本において、彼は、人の平均体重と平均身長を計算し、
性別、年齢、職業、出身地、による「クロス集計表(二元表)」を作成した。

うん?クロス集計表対応分析でも出てくる。
自信の無い人は、ここで、確認しておいた方が良いかもしれない。この話はいずれ。

とにかく、クロス集計表を作成した。何のためか?
それは、擬似的な架空の人格「平均人」を創り上げるためであった。
この平均人からの距離によって、現実に存在する人を統計的に観察できると考えたのであった。
平均平均からの距離(偏差)が個性という訳である。なるほど、非常に面白い。

この考えは、生物系統学におけるアーキタイプあるいは、
マックス・ウェーバーの「理念型」にも通じる概念にも思える。

さて、ケトレーという人物、後のマルクスデュルケイム
ナイチンゲール、非常に多くの人々に影響を与えた。
実は、この辺りの話を踏み込んでまとめたいところなのだが、今は止めておく。
正直なところ、まだまだ、調べきれていないことが多い。

今一度、注目したいことは、ケトレーの生きた時代
実は、彼、社会学の父と言われるオーギュスト・コント(1798-1857)と同世代人。

コントの親戚の中には、フランス革命後の混乱期に、
ギロチンで処刑された人もいる。フランスの激動期に翻弄された人物の一人である。
それ故に、コントにとって「社会的秩序」は何よりも重要なテーマであった。

社会的秩序という視点は、間違いなく、ケトレーにも存在する。
彼は、自身の方法論を社会改善に役立てようと考えていたらしい。
当時の混沌とした社会の中で、神に替わる秩序を欲しいたのかもしれない。
そして、おそらく、それは信仰心の否定という形ではなく、
むしろ、信仰心を通して自然に立ち向かえるという希望であったかもしれない。

遅々としたものであっても、人は道徳的な力を通して、自然の力に立ち向かえる

ケトレーはそのように感じていたようである。したがって、

自身の状況を理解することで、未来の自分の状態を改善できる

混乱の中から如何にして、社会的秩序を見出すのか?
さらに、より良い社会に発展させるにはどうするべきか?

歴史的状況と、社会学の登場は切っても切れない関係であり、
社会に自然科学(あるいは物理学)の法則を適用させようとしたことは、
歴史的、文化的にも重要なことである。

単に、自然法則の方法を適用するだけでなく、
そこから、社会秩序に関する問題解決を図ること、
それこそが、統計学の登場背景なのかもしれない。

ケトレーの考え方は、後に社会学第二世代と称される社会学者の一人、
デュルケームに影響を与え、ナイチンゲールに受け継がれることになる。

特に、ナイチンゲールは、近代統計学を語る上で非常に重要な人物であるが、
この話は、次の話で。

2012/08/11

文系のための「統計の歴史」(1)

ここまでは、行列の話が中心だった。退屈だったかもしれないし、
「そのような事はどうでも良いから分析法を教えろ!」
などと言いたい人もいるかもしれない。このブログでは、中身にも踏み込む。
ここまでの話が理解できないと、この先の話は到底理解できまい。

今回の話はちょっとした息抜きである。
息抜きであるが、多少は役立つ話。

数学アレルギーという(医学的根拠の無い)症例が在ったとして、
そのような病気(とは言えないようなもの)の処方(のようなもの)、
と言わないまでも、誤解を解く程度はできるかもしれない。

ということで、今回は文系らしい、文系の話である。
「統計」が、そもそもは、「文系」の領域であるという話である。

もっとも、「文系」と「理系」の定義関しては、様々な意見もあるかと思うので、

「文系」とは、「文化科学」を志向する人の総称であり、
「理系」とは、「自然科学」を志向する人の総称である。

これが、本ブログにおける「文系」と「理系」の位置づけである。
あくまで、「定義」とは言わず、「位置づけ」としておく。
ツッコミたい人もいるかもしれない。だから、詳しい話はしない

とにかく、数学の得意、不得意は問題ではない、ということ。

さてさて、この前提を置いた上で、
本来は、「統計」が「文系」のものである、という話をする。
定量的な手法は、どのような経緯で社会的な問題に応用されたのか?
まずは、この問題について整理から始めてみる。

歴史的な経緯を知ることは、定量的な分析の本質的な考え方や
方針を深く理解する上で非常に大きなヒントとなる。

定量的な手法を研究する分野に統計学がある。そんなことは知っている。
しかし、「統計」という言葉の意味は多様。一概に定義することは少々難しい。
状況に応じて、異なる意味を持つことがある。

そもそも、「統計」を意味する英語の「statistics」の語源は、
ラテン語の「statisticum colegium(国の評議会)」という言葉、あるいは、
イタリア語の官僚や政治家を意味するstatistaにあるとされている。

これが転じて、18世紀までは、「人口を体系的に集めたもの」あるいは、
国家の経済的なデータ」を指す言葉であった。

この意味は、現在でも使われている。例えば、「人口統計」。
単に、「国勢調査」などで得られた「表形式のデータ」を指す。

では、この意味が、どのような経緯で変化してきのか?

統計学の歴史では、諸説があるようだが、
ドイツのゴットフリート・アーヘンヴァール(1719-1772が、
国家の科学」という意味で「statistik」という言葉を用いた
のが近代統計の起源である。という説をこのブログでは採用する。

この辺は、Wikipedia 信じてみる。「総意」としては的を得ているだろう。
もっとも、他の説もあるようだ。これが「正しい」とは主張しない。
実際、以下のページおいても、ウィリアム・ペッティ説というのがある。
http://en.wikipedia.org/wiki/Gottfried_Achenwall(2012年8月10日 20:57 現在)

ともかく、ゴットフリートは、1749年に「国家の科学」という言葉を使ったらしい。
時期的には、オーストリア・継承戦争の時期。
フランス革命の遠因となった戦争であり、
世の中が混沌とした方向に向かっていく時期である。
このような状況下で「国家の科学」というものを提唱したことは興味深い。

では、どういった人物だったのか?かなりの「傑物」だったらしい。
哲学者であり、歴史学者であり、経済学者であり、法学者であり、統計学者であった。

彼は、イエナハレライプツィヒ、と転々と移動しながら勉強を続け、
1943年から1946年にかけて、ドレスデンで会計監査官として仕事に従事した。
1946年に、ライプツィヒ大学の哲学科で修士号を得てからは、
マールブルク大学の助教になり、歴史学統計学自然法国際法の講義を行った。

どうでも良い話であるが、幼少期に、マールブルクの街に居たことがある。
小さな、美しい街で、ヴェゲナーなど、様々な有名人たちに縁のある街である。

彼は、1748年ゲッティンゲン大学に招かれて、哲学の名誉教授になった。
さらに、1753年には、法学の名誉教授哲学科の専任教授となった。

国家の科学」という言葉を用いたのは、この時期である。
また、主要著書『ヨーロッパ諸国の国勢学綱要』(1951)もこの時期。
この本は、様々な国々の政体に対する総合的な視点から描かれていて、
農業、製造業、商業の状況について記述し、
至るところで、これらの主題に関して統計を用いた、らしい。

「らしい」というのは、私は、実物を確認していない
論文を書くときなどでは、ちゃんとした確認が必要。
今は、良い。研究のつもりでは書いていないから。これもいずれ。

彼の経済学的な立ち位置は「穏健派重商主義」という立場。
要するに、貿易など商業活動を通じて国家の富を増大させることを重視していた。
数字」との関わりで考えるならば、これも重要な要素であったと考えられる。

ふむ。「統計」との関わりだけならば、重要な話はここまで。
だが、折角なので、ここから先の話もする。

彼は、これで満足しなかった。ここまで来て、
自然法と政治学を極めようと志し、
1762年には両分野の博士号を取得した。
能力のみならず、凄まじい、気力と体力の持ち主のようだ。

どのような経緯があったのかは(勉強不足で)不明であるが、
ハノーヴァー朝のジョージIII世の経済的援助の下で、
1751年にはスイスとフランスに、1759年にはオランダとイングランドに訪れ、
そして、1765年には、大英帝国およびハノーヴァー(ドイツ)の法廷弁護人なった。

ふむふむ。なるほど。「統計」の始まりは「国家政策」と結びついていたようだ。
しかも、登場した時期というのが「将来が暗くなっていく」時期であった。

現在でも、「社会政策論」などは、「文系の領域」で扱うものであるし、
そういった観点から考えると、典型的な文系分野から始まったことになる。

このような言い方をすると、
いや、私は〇〇学だから関係ないし。適当に使えれば良いですよ。
などと、トンデモナイ発言をする人が居るかもしれない。
重要なことは、「何故、こういった技術が必要とされたか?」という問題。
そのような、事象の背後に潜んでいる「本質の姿」を推測し、理解することである。

っと、偉そうに言ってみた。

ふむふむ。それにしても、ゴットフリートという人物は多彩な人物であった。

そう言えば、ヒエログリフを解読したことで有名なシャンポリオン、
彼に、直接的な影響を与えたのはフーリエであった。
暗号解読は、かなり数学的なセンスが要求されるから数学は得意だっただろう。

哲学者として知られるカントも、数学に関して相当の知識があったようだ。
そもそも、哲学と物理学は「切っても切れない」関係がある。
今では、勝手に切ってしまっている人もいるようだが。
カントは、入賞しなかったとは言え、1764年の懸賞論文で、

自然神学や道徳といった形而上学的心理一般の第一原理が、
幾何学的心理のように、判明に証明されうるか否か…

という課題に挑戦し、第二位の成績であったらしい。
ちなみに、その時の入賞者は、モーゼス・メンデルスゾーン
音楽家で有名なフェリックス・メンデルスゾーンの祖父であった。

カントは、地理学ではお馴染みのランベルトにも一種の憧れがあったようで、
その影響もあってか、「カント・ラプラス星雲説」というのを唱えた。

多くの複雑な事象は、様々な観点を同時に扱うことで、
本質的問題を得られることが多い。細分化すると逆に見えなくなる
かつては、多視野な取り組みが当たり前だったのかもしれない。

さてさて、このブログは、本当に話がよく逸れる。
解りやすいのか、解りにくいのか、いずれにせよ修正は必要だろう。

さて、フランス革命1789年から始まる。
益々、社会が混沌と化し、大衆の操作が難しくなってくる
そうした中で、統計をめぐる状況は、どのように変化したのだろうか?
その話は、次の話でしてみようと思う。