ケトレーという人物は、とにかく、色々な人に影響を与えた。
フローレンス・ナイチンゲール(1820-1910)も、ケトレーの影響を強く受けた。
ナイチンゲールって誰?などと言う人は、まさか、居ないだろう。
日本では、クリミア戦争(1853−1856)で活躍した看護婦ということで有名。
「白衣の天使」というのは、彼女に由来する。これも有名な話。
クリミア戦争というのは、直接的には化学史や映像技術史、
間接的には、考古学や日本史とも関係する戦争でもある。
個人的には、これらの観点からこの戦争を俯瞰してみたいと、
そのように、考えているのだが、時間的な余裕が無く、今は構想だけ。
とにかく、ナイチンゲールは、世界的に有名な人物。
であるが、名前しか知らないという人もいるかも。
このような時に、Wikipedia というは、非常に便利な情報資源。
よくあることだが、日本語のページと英語のページで説明が微妙に異なる。
日本語のページ:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%8A%E3%82%A4%E3%83%81%E3%83%B3%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%AB
英語のページ:
http://en.wikipedia.org/wiki/Florence_Nightingale
あと、今回の話に関しては、元ネタの本が。参考に。
丸山健夫(2008)『ナイチンゲールは統計学者だった』 , 日科技連.
この本、丁度良いページ数。文字も大きくて読みやすい。
何より、内容が面白い。私のオススメの本。
なお、難解な数式は登場しないので、誰でも読める。
さて、ナイチンゲールという人物も、中々のマルチタレントな人物だった。
看護婦、社会起業家、看護教育学者、そして、統計学者。
うん?統計学者!?ちょっと意外に思うかもしれない。
しかし、彼女がクリミア戦争で看護婦として活躍したことと、
統計学者であったことは、決して無縁ではない。
ナイチンゲールは、1820年5月12日に、フィレンツェで誕生した。
別に、イタリア人というわけでは無い。両親は裕福なイギリス人の地主だった。
そんな両親が、三年間の新婚旅行に出かけている途中で誕生した。
それにしても、三年間とは...。大富豪のやることは規模が違う。
私の場合は、一泊二日の有馬温泉だった。まぁ、そのような話はどうでも良い。
実は、フィレンツェは、英語では「Florence」と言う。彼女の名前は、生まれた地名。
少々、安直な命名のようにも感じるが。まぁ、この話もどうでも良い。
ナイチンゲールは、非常に高い水準の教育を受けてきた。
複数の言語を自在に操り、ラテン語も出来たようである。
ギリシア哲学や、数学、天文学、経済学、歴史、美術、音楽、絵画、
地理学、歴史学、心理学といった勉強まで。まさに、天才少女だった。
当時の社会状況を考えると、教養の高さではヨーロッパでもトップクラスだった。
彼女の家庭環境だけでなく、彼女自身の教養の高さもあって、
上流階級の様々な人物と交流があったようである。
即位したばかりのヴィクトリア女王に謁見したこともあったし、
貴族や政治家の知り合いも多かった。
裕福な家庭、高い教養、人的ネットワーク、それらを兼ね備えた人物だった。
単なる、ボランティア精神豊かな人物では無かったのである。
さて、ナイチンゲールがなぜ、このブログに登場したのか。
彼女こそ、「統計データの可視化」の先駆者であり、
近代統計学あるいは応用統計学の母と言うべき存在なのである。
彼女の友人の一人に、シドニー・ハーバートという人物が居た。
彼は、クリミア戦争時の戦時大臣でもあった。
クリミア戦争の戦場は、苛烈な状況であったが戦場の看護婦は不足していた。
ハーバートは、そのような状況下で政府が派遣する「看護団」のことを考えていた。
そして、「責任者は、ナイチンゲールしか居ない」と考えた。
一方のナイチンゲールも、看護関係に強い興味があり、
また、看護活動は彼女の天職であると信じていた。
だから、「クリミアに行くのは私の仕事!」と考えていたのである。
こうして、ナイチンゲールは、クリミア戦争の戦地に赴くことになった。
彼女が戦場で見たこと。それは、戦争で死ぬ兵士よりも、
極端に劣悪な衛生状況が原因で蔓延した伝染病で死亡する兵士が多いという現実。
彼女は、ハーバートに相談した。この状況を、調査するべきであると。
そして、彼女は、優秀な仲間たちと、この問題にとりかかった。
統計学者のウィリアム・ファー、
衛生学者のジョン・サザーランド、そして、
陸軍工兵のダグラス・ゴールトン。
ダグラス・ゴールトンは、ナイチンゲールの従姉妹の夫。
っで、ダグラス・ゴールトンの親戚には、
フランシス・ゴールトンという人物が居る。この人物、重要!
そして、その従兄弟には、チャールズ・ダーウィン。凄い人間関係。
話が逸れた。いつものように。
とにかく、ナイチンゲールとその仲間たちは戦場の衛生状況を調査した。
そして、統計の力を借りて、現状を把握、問題の可視化、現状の改善、
という、現在では当たり前のことを実践した。
統計の力を借りて、現実の問題を明らかにし、それを元に現実を改善する。
この考えのオリジナルこそ、前回の話の中心物、ケトレーだった。
さて、彼女らの調査について、特筆すべきことは、彼女の作った報告書。
そこには、様々なグラフィカルな図がギッシリと詰まっていた。
それまでは、可視化というアイデアは重要視されていなかった。
だから、当時は、可視化された統計データは珍しく、文章だらけ。
現在でも言えることであるが、文章だらけの報告書は読みにくい。
量が多いと、正直言って、ウンザリする。
逆手に取って、文章だらけの報告書で「誤魔化す輩」も居るが。
さて、そのような状況下、美的感覚にも優れた彼女が、
体系的に、統計データの可視化を行ったのである。
以下は、最も有名な図の一つ。他にも様々な図がある。
(出典:http://en.wikipedia.org/wiki/File:Nightingale-mortality.jpg)
これを「バッツ・ウィング・グラフ」あるいは、
「ナイチンゲール・ローズ・ダイアグラム」と呼ぶ。
実は、この図こそが、現在の円グラフの先駆けとなった。
ナイチンゲールは、円グラフを最初に有効活用した人物であった。
ナイチンゲールの報告書のインパクトは凄かった。
政治家や官僚を一瞬で魅了し、彼女らが提案した改善策が実際に採用された。
そして、実際に上手く行った。戦場の衛生環境は急速に改善されたである。
ナイチンゲールは、その後も統計学者だった。
女性としては、初めて、王立統計学会のフェローにも推薦された。
また、大学に応用統計学の講座を開くことの必要性も感じていた。
これは実現しなかったが、彼女は、オックスフォード大学に
応用統計学の寄付講座を作りたかったらしい。
このことは、フランシス・ゴールトンにも相談した。
もっとも、この時には、彼には受け入れられなかったらしい。
しかし、このことは、後に重要な話に繋がっていく。
応用統計学が大学の講義として開講されるようになったのは、
このフランシス・ゴールトンの寄付講座によるのが最初。
もっとも、寄付した先は、オックスフォード大学ではなく、
ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)だった。
実は、フランシス・ゴールトンという人物、この人物も色々と面白い。
ダラダラ書いても飽きてくる。この人物の話は、いずれ。
フローレンス・ナイチンゲール(1820-1910)も、ケトレーの影響を強く受けた。
ナイチンゲールって誰?などと言う人は、まさか、居ないだろう。
日本では、クリミア戦争(1853−1856)で活躍した看護婦ということで有名。
「白衣の天使」というのは、彼女に由来する。これも有名な話。
クリミア戦争というのは、直接的には化学史や映像技術史、
間接的には、考古学や日本史とも関係する戦争でもある。
個人的には、これらの観点からこの戦争を俯瞰してみたいと、
そのように、考えているのだが、時間的な余裕が無く、今は構想だけ。
とにかく、ナイチンゲールは、世界的に有名な人物。
であるが、名前しか知らないという人もいるかも。
このような時に、Wikipedia というは、非常に便利な情報資源。
よくあることだが、日本語のページと英語のページで説明が微妙に異なる。
日本語のページ:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%8A%E3%82%A4%E3%83%81%E3%83%B3%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%AB
英語のページ:
http://en.wikipedia.org/wiki/Florence_Nightingale
あと、今回の話に関しては、元ネタの本が。参考に。
丸山健夫(2008)『ナイチンゲールは統計学者だった』 , 日科技連.
この本、丁度良いページ数。文字も大きくて読みやすい。
何より、内容が面白い。私のオススメの本。
なお、難解な数式は登場しないので、誰でも読める。
さて、ナイチンゲールという人物も、中々のマルチタレントな人物だった。
看護婦、社会起業家、看護教育学者、そして、統計学者。
うん?統計学者!?ちょっと意外に思うかもしれない。
しかし、彼女がクリミア戦争で看護婦として活躍したことと、
統計学者であったことは、決して無縁ではない。
ナイチンゲールは、1820年5月12日に、フィレンツェで誕生した。
別に、イタリア人というわけでは無い。両親は裕福なイギリス人の地主だった。
そんな両親が、三年間の新婚旅行に出かけている途中で誕生した。
それにしても、三年間とは...。大富豪のやることは規模が違う。
私の場合は、一泊二日の有馬温泉だった。まぁ、そのような話はどうでも良い。
実は、フィレンツェは、英語では「Florence」と言う。彼女の名前は、生まれた地名。
少々、安直な命名のようにも感じるが。まぁ、この話もどうでも良い。
ナイチンゲールは、非常に高い水準の教育を受けてきた。
複数の言語を自在に操り、ラテン語も出来たようである。
ギリシア哲学や、数学、天文学、経済学、歴史、美術、音楽、絵画、
地理学、歴史学、心理学といった勉強まで。まさに、天才少女だった。
当時の社会状況を考えると、教養の高さではヨーロッパでもトップクラスだった。
彼女の家庭環境だけでなく、彼女自身の教養の高さもあって、
上流階級の様々な人物と交流があったようである。
即位したばかりのヴィクトリア女王に謁見したこともあったし、
貴族や政治家の知り合いも多かった。
裕福な家庭、高い教養、人的ネットワーク、それらを兼ね備えた人物だった。
単なる、ボランティア精神豊かな人物では無かったのである。
さて、ナイチンゲールがなぜ、このブログに登場したのか。
彼女こそ、「統計データの可視化」の先駆者であり、
近代統計学あるいは応用統計学の母と言うべき存在なのである。
彼女の友人の一人に、シドニー・ハーバートという人物が居た。
彼は、クリミア戦争時の戦時大臣でもあった。
クリミア戦争の戦場は、苛烈な状況であったが戦場の看護婦は不足していた。
ハーバートは、そのような状況下で政府が派遣する「看護団」のことを考えていた。
そして、「責任者は、ナイチンゲールしか居ない」と考えた。
一方のナイチンゲールも、看護関係に強い興味があり、
また、看護活動は彼女の天職であると信じていた。
だから、「クリミアに行くのは私の仕事!」と考えていたのである。
こうして、ナイチンゲールは、クリミア戦争の戦地に赴くことになった。
彼女が戦場で見たこと。それは、戦争で死ぬ兵士よりも、
極端に劣悪な衛生状況が原因で蔓延した伝染病で死亡する兵士が多いという現実。
彼女は、ハーバートに相談した。この状況を、調査するべきであると。
そして、彼女は、優秀な仲間たちと、この問題にとりかかった。
統計学者のウィリアム・ファー、
衛生学者のジョン・サザーランド、そして、
陸軍工兵のダグラス・ゴールトン。
ダグラス・ゴールトンは、ナイチンゲールの従姉妹の夫。
っで、ダグラス・ゴールトンの親戚には、
フランシス・ゴールトンという人物が居る。この人物、重要!
そして、その従兄弟には、チャールズ・ダーウィン。凄い人間関係。
話が逸れた。いつものように。
とにかく、ナイチンゲールとその仲間たちは戦場の衛生状況を調査した。
そして、統計の力を借りて、現状を把握、問題の可視化、現状の改善、
という、現在では当たり前のことを実践した。
統計の力を借りて、現実の問題を明らかにし、それを元に現実を改善する。
この考えのオリジナルこそ、前回の話の中心物、ケトレーだった。
さて、彼女らの調査について、特筆すべきことは、彼女の作った報告書。
そこには、様々なグラフィカルな図がギッシリと詰まっていた。
それまでは、可視化というアイデアは重要視されていなかった。
だから、当時は、可視化された統計データは珍しく、文章だらけ。
現在でも言えることであるが、文章だらけの報告書は読みにくい。
量が多いと、正直言って、ウンザリする。
逆手に取って、文章だらけの報告書で「誤魔化す輩」も居るが。
さて、そのような状況下、美的感覚にも優れた彼女が、
体系的に、統計データの可視化を行ったのである。
以下は、最も有名な図の一つ。他にも様々な図がある。
(出典:http://en.wikipedia.org/wiki/File:Nightingale-mortality.jpg)
これを「バッツ・ウィング・グラフ」あるいは、
「ナイチンゲール・ローズ・ダイアグラム」と呼ぶ。
実は、この図こそが、現在の円グラフの先駆けとなった。
ナイチンゲールは、円グラフを最初に有効活用した人物であった。
ナイチンゲールの報告書のインパクトは凄かった。
政治家や官僚を一瞬で魅了し、彼女らが提案した改善策が実際に採用された。
そして、実際に上手く行った。戦場の衛生環境は急速に改善されたである。
ナイチンゲールは、その後も統計学者だった。
女性としては、初めて、王立統計学会のフェローにも推薦された。
また、大学に応用統計学の講座を開くことの必要性も感じていた。
これは実現しなかったが、彼女は、オックスフォード大学に
応用統計学の寄付講座を作りたかったらしい。
このことは、フランシス・ゴールトンにも相談した。
もっとも、この時には、彼には受け入れられなかったらしい。
しかし、このことは、後に重要な話に繋がっていく。
応用統計学が大学の講義として開講されるようになったのは、
このフランシス・ゴールトンの寄付講座によるのが最初。
もっとも、寄付した先は、オックスフォード大学ではなく、
ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)だった。
実は、フランシス・ゴールトンという人物、この人物も色々と面白い。
ダラダラ書いても飽きてくる。この人物の話は、いずれ。
将来的にはぜひ、フィッシャー、ネイマン、ピアソン、あたりの論争からトーマスベイズのベイジアンの話に続いて、最尤推定やGLMといった統計モデルの話に広げて赤池さんの話など盛り込んでもらえると統計学全体の歴史が見えてくると思うので期待しています。頑張ってください。
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